群衆は、弟子達は舟に乗ったが、イエスはその舟に乗っていないことを見ていたので、カファルナウムで主イエスを見つけたことに驚きます。主イエスは、彼らの心に「あなたのような、都合の良い方に王になってほしい。」という思いが透けて見えたので、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と答えます。
人々は、主イエスがなされた力ある業を見、主イエスが誰であるかを悟り、その方の教えを聞こうとして捜しに来たのではないのです。ただ、パンを食べて満腹し、そのように必要なパンをいつも与えてくださる方をそばに置いておきたいと言う、物質的な願いをもって主イエスを捜していたのです。主イエスは群衆に対して、次のように答えられます。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
永遠の命に至る食べ物とは、復活者主イエスのことなのです。
主イエスが、十字架上で処刑された後、復活されたのは、主を世に送られた父なる神様が、主イエスを終末的な審判者であり救済者である「人の子」だと認められた出来事です。
主イエスは、神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業なのだと言われます。それは、主イエスにおいて神様が働いておられること、主イエスの十字架の死と復活がわたしたちの罪からの救いと関わっていること、を信じることなのです。そして、信じると言うことは神様の賜物であり、人間の業ではないことなのです。人間ができることは、神様の働きに自分を開くことなのです。
主イエスは、「神のパン」を、「天から降って来る」と「世に命を与える」という二つの述語によって説明されます。天から降って来て世に命を与える主イエスこそが、「神のパン」なのです。