わたしだ。恐れることはない。

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章16節~21節

夕方になり、弟子たちは舟に乗って向こう岸のカファルナウム、自分たちの町に帰ろうとします。暗くならないうちに行ってしまおうと考えたのでしょう。主イエスはまだ来ていませんでした。

間もなく、湖は荒れ始めました。舟は強い風と激しい波によって、木の葉のように翻弄されていました。

「暗くなっていたが」という言葉は、景色の暗さに加えて、人間の心の闇の意味も含んでいます。まことの光である主イエスを見ようとしない闇、自分の力で何とかしようという、高慢、驕りの闇です。

弟子達は、主イエスの給食の奇跡を目の当たりにして、御心を十分理解しないうちに、自分の知恵の範囲で人々に宣べ伝えようとしたのでしょう。

すると弟子たちの所に、主イエスは湖の上を、荒れる波の上を、舟に近づいて来られたのです。

舟の場所は、湖の中ほどのところです。その距離を、しかも荒れる波の上を主イエスは歩いて舟に近づいて来られたのです。ここで記されている「恐れ」は、怖いというより、畏れ多いという意味が強い表現です。水の上を歩かれる超越的な力を持った方に出会い、畏れを感じたのです。

主イエスは「わたしだ。」とご自身を明らかにされます。この言葉、ギリシア語の「エゴ―・エイミ」は、英語に直訳すると「I  AM」、神様が御自身を表す言葉です。この言葉は、出エジプト記3章14節に出て来ます。モーセが羊の世話をしている時、神様から告げられた言葉です。この時、神様はモーセに「あなたの立っている場所は聖なる場所である。履物を脱ぎなさい。」と命じられました。神様は聖なる方で、人間から近づくことはできないのです。弟子たちは神様が御自身を表されたことに、畏怖の念を抱いたのです。

弟子たちは、主イエスを迎え入れようとしました。心の向きを変えたのです。すると、舟は望む港に着いたのです。

「エゴー・エイミ」 神様は、すべてを創造し、すべてを支配される方です。そして、私たちの罪が赦されるために、独り子を世に送ってくださいました。