その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
ヨハネによる福音書 は、ここまで、主イエスに対する態度で、人を4つのタイプに分けてきました。1つ目は、母マリアや弟子たちのように、主イエスに信頼する人々、2つ目は、自分の考えに固執して主イエスを受け入れない人々、3つ目は、自分の利益になるならば信じる御利益宗教の人々、4つ目はニコデモに代表される人々で、主イエスを理解するが 信じるまでには至らない人々です。
洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で悔い改めのしるしとして洗礼を授けていました。
一方、主イエスとその弟子たちも、ヨルダン川で洗礼を授けていました。
洗礼者ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人との間で論争が起こりました。それは、主イエスの洗礼や教えの方が、ヨハネのものよりも勝っているという意見に関するものでした。
弟子たちの訴えに対し、洗礼者ヨハネは自分自身の役割について、「主イエスの道備えをする者である」と言い、人はそれぞれに与えられた役割があると述べました。洗礼者ヨハネは、「私はメシアではなく、メシアである主イエスの前に遣わされた者である」と繰り返しました。そして、旧約聖書にある、神様とイスラエルとの関係が花婿と花嫁にたとえられていることを引用して、主イエスは花婿であり、信じる者たち、すなわち教会は花嫁であると述べ、自分は花嫁の介添え人、すなわち、友人であるとたとえました。
主イエスは、私たち信仰者を「友」と呼んで下さいました。そして、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(15:13)と言われ、その言葉の通りに、十字架に架かって死に、私たちの罪が赦されるための、犠牲となられました。
洗礼者ヨハネは、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」という言葉を残して、ヨハネによる福音書から姿を消しました。
ヨハネによる福音書1章8、9節には、次の言葉があります。
「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
洗礼者ヨハネは、まことの光である主イエスを証しするために地上を歩みました。私たちも、まことの光を知った者として、主イエスを証ししてまいりましょう。神様は、折りに適った助けを下さり、光の中を歩ませてくださいます。